続・法隆寺の柱をエンタシスと呼ぶのはなぜか?伊東忠太を追いかけろ!

男は調べていた。法隆寺の柱をエンタシスと言い始めた男のことを。

その男の名は伊東忠太!日本建築史の始祖と呼ばれる男だ。

男は伊東忠太の名前と幾つかの建築作品を知っているだけだった。男は伊東忠太が法隆寺の柱をエンタシスと関連付けたのは何故かを知りたかった。

そして、男は伊東忠太を調べていくうちに衝撃の事実を知ることになるのであった・・・

エンタシス エンタシス エンタシス・・・

日本建築史の始祖 伊東忠太

本題に入る前に伊東忠太博士(以下博士)をもう一度おさらいしておこう。

伊東忠太略歴

  • 生まれ 1867年11月21日(慶応3年)山形県米沢市に生まれる。7歳から東京で生活する
  • 1889年(明治22年)東京帝国大学造家学科入学 23歳
  • 1892年(明治25年)東京帝国大学造家学科卒業 大学院に進学 卒業論文は「建築哲学」卒業設計は「ゴシックの教会堂」26歳
  • 1893年(明治26年)東京美術学校講師 建築装飾担当 岡倉天心と出会う「法隆寺建築論」発表 平安神宮の設計技術監督になる 27歳
  • 1894年(明治27年)造家学会から建築学会への改称を主張し、造家から建築へと改称される。建築という言葉は伊東忠太が発明! 28歳
  • 1898年(明治31年)「法隆寺建築論」を大学院卒業論文かつ学位請求論文として提出する。32歳
  • 1902年(明治35年)アジア、欧米留学に出発する。(留学といってもその中身は大旅行)36歳
  • 1905年(明治38年)留学から帰国する。東京帝国大学教授に就任。39歳
  • 1954年(昭和29年)88歳で逝去

まことに小さき国が開花期を迎える頃、博士は生まれ、明治という新しい時代とともに成長していく。

博士はもともとは画家になりたかったそうだが、父親の反対で建築(当時は造家)の道に進むことになる。建築であれば、美術的な要素もあるだろうと建築の道を選んだそうだ。

絵画の腕前は相当なもので、「潜龍」という署名の入った美人画は建築家が描いたとは思えないほどの完成された日本画で、その絵の才能(造形的な要素など)は建築作品にも表れている。

博士は変な趣味も持っている。幼い頃から妖怪が好きで、それが後の作品にも表れてくる。とんでもない量の妖怪スケッチがあるそうだ。

そんな、芸術志向の博士は建築の学問の中でも建築史を選んで研究していったのは何故だろうか。

博士は日本の未来の建築を創造するためには、「世界の歴史」と「日本の建築史」を基にして考えなければいけないという哲学があった。

そして博士は日本建築史の研究に進む。ちなみに伊東忠太博士は博士号を取得した最初の建築学者でもある。男の中の男!博士の中の博士!

エリート街道をまっしぐらの伊東忠太博士。建築界の巨人である。

法隆寺建築論

博士が法隆寺の柱をエンタシスと関連付けた著書が「法隆寺建築論」だ。今回参考にした「法隆寺建築論」は明治31年に発表されたものと少し違う。最初に発表された「法隆寺建築論」では、ギリシャ神殿との比較が図で表されているようだが、国立国会図書館の「法隆寺建築論」ではそのような図は掲載されていなかった。「法隆寺建築論」の最後に、注意書きで内容には手を加えず、付図を省いたとある。この記事は国立国会図書館のデジタルコレクションで読める「法隆寺建築論」を参考にしていく(最後にリンクをはっておきます)

さて「法隆寺建築論」は伊東忠太の思想が明らかになって面白い。博士の思考の射程距離の長さに驚かされる。

「法隆寺建築論」は建築界の法隆寺の位置付けから始まる。

簡単にいうと、ギリシャ(アレクサンダー大王)が勢力を広げて、近隣諸国に影響を与え、中央アジアの地にギリシャの影響を受けた「西域クラシック」が繁殖し、インドの仏教が広がり、ガンダーラ(アフガニスタンのカブールあたり)で、ギリシャとインドの美術が融合した。そうであるなら、日本に入ってきた仏教はガンダーラから中国を経由し、さらに百済を経て入ってきたので、少なからずギリシャ・インド美術の影響も輸入されているというのが博士の考えである。

※博士の時代の西域がどの範囲かはわからないが、WikiPediaによると、中央アジア、イラン、インド、地中海沿岸に至る西アジアのことをいうらしい。

そして博士は下の等式を立てる。

  • 漢魏+西域=三韓式=推古式(法隆寺は博士によると推古式)
  • 六朝+西域=隋唐式=天智式

要するに推古式とは西域から中国を渡り、百済から輸入されたものとしている。ここがエンタシスに至る根本の思想のようだ!この等式が成り立つということは法隆寺の柱のふくらみもエンタシスと呼ぶことができると思うがはたして・・・

エンタシス

エンタシスの記述は「法隆寺建築論」の中門建築説 ”九・柱及び其のエンタシス” で初めて出てくる。

博士は中門の柱は礎盤がないので、ギリシャのドリス式に似ていて、そしてその輪郭はエンタシスという曲線よりなるという。しかし、エンタシスの根拠は明確には書かれていない。

博士はもう少し踏み込んでエンタシスのことを書いている。

以下「法隆寺建築論」一部引用

然れども更に一歩進めて考ふれば、彼の「エンタシス」と唱ふるものは、数学のいわゆる「コンコイド オブ ニコメデス」或いはハイパボラに近似の線にして、法隆寺中門の柱の輪郭もまた、これと同性質の曲線より成るものと認めて可なるものなり

数学的な曲線により同じものであるというが、しかし、東西人の嗜好により、この曲線の係数に多少の差異がある、だからギリシャの柱とは形が少し違うという。

数式は同じ?係数が違う?ちょっと何ゆってるかわかんないですけど・・・。

金堂建築説 ”九・柱及び其のエンタシス”にもエンタシスの記述がでてくる。

”金堂の柱もエンタシスの一種よりなる。” エンタシスの一種?エンタシスに種類があるのか!?

確かに金堂と中門の柱の形状は異なっているが、博士は、「エンタシス」でひとくくりにしている。

博士の愛した等式によると自然とエンタシスということになるのかもしれない。

(※金堂と中門の柱は下から三分の一のところで最大径になるのは同じだが、形は異なっている。)

他にエンタシスが出てくるのは回廊の柱の部分でそこでも、”柱はエンタシスよりなり”・・・とある。

以上「法隆寺建築論」でエンタシスの記述が出てくる部分を挙げてみたが、詳細な論はなく、よくわからない。

これだけでは、よくわからないので、博士が書いた別の本も見てみた。その本はその名もズバリ「法隆寺」。※「法隆寺」は昭和15年11月発行。留学紀行の後に書かれている。

その「法隆寺」でエンタシスについての記述がある。

そこで博士は、

柱のエンタシスの遠源はギリシャ、および西アジアにある。さらに、中国でこれが考案されたとは考えられないともいう。なぜならば、エンタシスのような微妙な曲線は芸術的に鋭敏な民族しか作れないからだと言っている。(軽くディスっている)

そして、エンタシスの最も古い事例は中国の雲崗(ウンコウ)の石窟寺にあり、その手法は敦煌(トンコウ)の石窟寺から伝わったものであるという。敦煌の手法は更に遠い西域から伝来したものと推定されるという。具体的に証明することは出来ないが、エンタシスはギリシャ・西アジアから来たと考えるのが妥当であると結論づけている。

さらに博士は、朝鮮にもエンタシスの事例はあるが、これは中国から伝来したものであるという。それが、日本に伝わって、法隆寺の柱になったという。

「法隆寺建築論」と「法隆寺」と二冊の本を見てみたが、どうもエンタシスについてははっきりしない。

博士旅に出る

博士は帝国大学教授になるために三年間の留学にでる。当時は教授になるために留学をすることが、慣例だったらしく、博士も例に漏れず留学をする。ただし、この時代の留学はヨーロッパ諸国に留学するのが当たり前だったようだが、博士はヨーロッパ経由で帰国することを条件にアジア諸国を廻ることを留学として認めてもらった。(許可したのは東京駅を設計し辰野金吾らしい)

※博士の旅行での資料などは国立国会図書館のデジタルコレクションで読めます。最後にリンクをはっておきます。

かくして博士は日本建築の源流を求めて、中国から入り大旅行をする。時は日露戦争の二年前。

雲崗の石窟(ウンコウのセックツ)

博士は中国に入りいきなりすごい発見をする。雲崗の石窟は当時大発見だったらしいが、その発見に博士は気づかずに、発見の手柄をフランス人に取られてしまう。

中国の各所の石窟で博士は法隆寺と類似する点をいくつか発見する。

雲崗石窟では、法隆寺にもある人形束や、雲崗、敦煌の石窟では法隆寺金堂の天蓋と同様の意匠を発見する。しかし、「法隆寺」で記述されていた、エンタシスの柱の写真はどうも見当たらない。

(上記は雲崗石窟のスケッチ。人形束がある。伊東忠太建築文献三巻の写真をスケッチ)

上記画像は法隆寺の高欄。卍崩しの下に人形束が入っている。雲崗石窟との共通点

雲崗の石窟で、ある柱の写真を見ると、柱頭にイオニア式風の意匠が施されている柱がある。そして、博士は雲崗の石窟でエンタシスに近いものはあると言っているが、それを示す具体例はこの本の中では示されていなかった。

個人的に雲崗石窟の柱頭の意匠はワラビにしか見えないが、果たしてギリシャ建築のイオニア式オーダーと言っていいのだろうか。博士はもちろんイオニア式と言っている。

(上記画像は雲崗石窟にある柱とイオニア式の柱との比較。雲崗石窟の柱は角柱。雲崗の柱には模様が施されていて縦の溝はない。伊東忠太建築文献三巻の写真をスケッチ)

この柱の意匠がイオニア式かどうかは別として石窟の資料は見ていてとても面白い。エンタシスはともかく、法隆寺の意匠の起源がこの石窟に凝縮されている。法隆寺の意匠は中国から百済に入り日本に入ってきたことが、この石窟で明らかになっている。

雲崗の石窟の場所↓

石窟を後にして博士はミャンマーに入り、海路でインドに入る。インドを縦断してムンバイから紅海に入り、エジプト、ギリシャ、トルコなどを巡ってヨーロッパ、北アメリカを廻って帰国する。(博士の旅行は膨大すぎるので、詳しく知りたい方は参考資料を見てみてください)

博士のこの大旅行の目的は日本建築の源流を求めた旅だった。果たして博士は自分の立てた仮説に確証を持つことができたのだろうか。

この記事の参考にしている鈴木博之著「伊藤忠太を知っていますか」に博士が出した結論が載っている。博士の結論は(以下一部引用)

推古式は西域と支那との和合なりとのTheoryは破るべし

伊東忠太フィールドノート第7冊「インド」より

博士は自分の立てた仮説を留学を通して破ることになった。しかし、昭和15年発効の「法隆寺」ではエンタシスのことにも言及している。フィールドノートよりも後の発行のはずなので、そう簡単には、自分の仮説を捨てきれなかったのかもしれない。

博士の立てた仮説は途方もなく、常人には理解しがたいかもしれないが、博士の残した資料や、考えは今でも十分刺激になる。この記事ではエンタシスのことのみに絞って調べてみたが、雲崗の石窟と法隆寺の共通点などを知ることができた。

男が伊東忠太を追いかける旅はこれから長く続きそうだ。

男が個人的にエンタシスのことを書いた記事はこちら↓

法隆寺エンタシスの柱 エンタシスと呼ばれるのはなぜか?

 

参考資料

国立国会図書館デジタルコレクション

デジタルコレクションの検索に”伊東忠太” といれると、伊東忠太建築文献、第1巻~6巻が出てくると思います。デジタルコレクションはPDFにもできるので、読みにくかったらPDFにすると読みやすくなります。ほかにも伊東忠太の著作はたくさん出てきます。

その他の参考資料

鈴木博之著「伊東忠太を知っていますか?」

鈴木博之氏と藤森照信氏との対談や、安藤忠雄氏、石山修武氏、伊東忠太研究で有名な倉方俊輔氏などが伊東忠太の建築や人となりについて語っていてとても面白い本です。

伊東忠太著「法隆寺」

記事中でも一部参考にした伊東忠太博士の法隆寺に関する本です。

東京人2012年12月号

雑誌ですが、伊東忠太に関する人たちや、伊東忠太自身についた特集記事が載っています。伊東忠太をしるにはこれが一番わかりやすいかも。廃盤ですが、図書館なら見れると思います。

布野修司編 アジア都市建築研究会執筆 「アジア都市建築史」

はじめのほうに伊東忠太のことが載っています。伊東忠太中心に知りたい場合は物足りないと思いますが、アジアの建築史で伊東忠太も見たであろう世界が載っています。