法隆寺エンタシスの柱 エンタシスと呼ばれるのはなぜか?

今回は建築というよりも、法隆寺の柱について書いてみたいと思います。法隆寺の金堂の説明で、柱のふくらみはギリシャ建築のエンタシスだと言っているのをよく見聞きします。法隆寺の柱をエンタシスと呼ぶのは何故なのか、そしてその違いを考えてみたいと思います。

法隆寺五重塔・金堂の記事はこちら↓
名建築記憶と記録 法隆寺 金堂・五重塔・廻廊編 図解付き


法隆寺の柱はエンタシスではない!!

いきなりですが、法隆寺の柱はエンタシスではない!

エンタシスではない!という根拠は、ギリシャ建築の影響で、法隆寺の柱ができているという証拠がないからです。

ギリシャの影響があるとするならば、ギリシャから日本に伝来する途中に似たようなものが残っていてもよさそうですが、そういった建築物はないそうです。

しかし、エンタシスではない!と言い切る証拠もありません。

では、そもそもエンタシスとは何なのか、そして、なぜ法隆寺の柱がエンタシスと呼ばれるようになったのかを探りつつ、法隆寺の柱とパルテノン神殿の柱を比較して考えてみたいと思います。

エンタシスとは?

エンタシスとは、ギリシャの神殿建築の柱のふくらみのことを言います。

ギリシャの神殿といえばパルテノン神殿が有名です。パルテノン神殿の柱は下から上にかけて途中ふくらみながら細くなっていきます。

パルテノン神殿のエンタシス

パルテノン神殿のエンタシスの柱。3DCGでモデリング。

パルテノン神殿風の柱

エンタシスの出どころと広まった理由 建築家・伊東忠太と哲学者・和辻哲郎

法隆寺の説明でエンタシスの事を見聞きしていましたが、今までまったく調べていませんでした。

wikipediaによると、建築家 伊東忠太が、明治二十六年(1893年)に法隆寺の柱とギリシャ神殿建築の柱を関連付けた論文を書いたそうです。

論文の中身などは詳しくは知りませんが、この話の出どころは伊東忠太ということでよさそうです。

その後、大正八年(1919年)に和辻哲郎が書いた「古寺巡礼」で法隆寺金堂の柱について言及しています。

和辻哲郎は伊東忠太の論文には一切触れていませんが、法隆寺の柱はギリシャ建築のエンタシスの影響があると書いています。(特に根拠は書かれていない)

私の想像ですが、和辻哲郎は伊東忠太の論文を読んだか、誰かにこの論文の話を聞いていたのではないかと考えています。(二人とも東京帝大)

この「古寺巡礼」で全国に法隆寺の柱はエンタシスだということが広まっていったのではないかと私は想像しています。

建築家 伊東忠太の紹介は最後に書いておきます。

エンタシス VS 胴張

さて法隆寺の柱はエンタシスという証拠はないですが、エンタシスでないと言い切る証拠もありません。そこで、一度両方を見比べてみます。

左が法隆寺 右がパルテノンの柱

 

上記のCGの左側、赤い柱が法隆寺の柱です。そして右側がパルテノン神殿の柱です。

法隆寺の柱は金堂の柱を想定して作りました。資料は手元にある断面図からモデリングしています。

パルテノンのほうは写真をみつつ、大きさは大体の資料でモデリングしています。

両方とも正確な寸法の資料でモデリングしているわけではありませんが、大体の雰囲気は出ていると思います。

上記画像を見ると大きさがそもそも違います。法隆寺金堂の柱の高さは約4m、パルテノンは約10mです。



この両者の違いがわかるでしょうか。法隆寺の柱は高さの真ん中部分で膨らんでいるのではなく、下から1/3より少し上で最大径になっています。

パルテノンのほうは下から上に細くなりつつ少しだけはらんだような膨らみになっています。

左がエンタシスのない柱のモデル

柱の底辺と頂部の円を直線で結んで円筒をつくると、柱がやせて見えます。このパルテノン神殿の柱のふくらみは単純に視覚補正です。(特に見上げた時の視覚補正)

では法隆寺の柱のふくらみは何のためでしょうか。

金堂の柱は高さ的にも、見上げた時の視覚補正と考えるには無理があるように思います。

個人的な推測ですが、ただこのふくらみが美しかったという、造形的な理由ではないでしょうか。

法隆寺 柱頭のスケッチ

柱上部の雲肘木や雲斗など、直線的ではなく造形的な要素が多くあります。

百済観音像のような流れるようなフォルムを飛鳥時代の人が作ったように、柱も造形的な理由からこのような形になったと考えると、理解しやすいのではないかと思いました。

金堂の柱は堂々としていますが柔らかい感じがします。堂々として張りがある柱、これはエンタシスというよりも胴張といったほうが適切ではないかと思います。

飛鳥様式についてはこちら↓

飛鳥様式の特徴を解説。胴張の柱、卍崩の高欄、雲斗雲肘木等図解入りで解説 

法隆寺の五重塔、金堂はこちら↓

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建築家 伊東忠太

では最後にこの話のきっかけを作った伊東忠太とはどんな人物なのか、建築家伊東忠太を紹介しておきます。

伊東忠太は1867年11月21日生まれの明治から昭和にかけて活躍された建築家です。

伊東忠太の作風は特徴的な造形の建築物が多く、かなりインパクトがあります。

この間東京にいった時に、伊東忠太っぽいなと思って撮った写真を調べてみると、やはり伊東忠太でした。

東京都慰霊堂の塔

上の写真は東京都慰霊堂の塔です。遠くからでもかなりインパクトがあります。このとき知っていたらちゃんと見ていたのですが、残念ながら、この写真1枚撮って終わってしまいました。

場所は東京都墨田区横綱の横綱町にあります。墨田北斎美術館に行くときに見かけました。

明治神宮の宝物殿

明治神宮の宝物殿の肘木

明治神宮の宝物殿も伊東忠太が関わっていたそうです。伊東忠太の事はほとんど知らなかったのでもっとちゃんと見ておけば良かったと今悔しい思いをしています。(関西の伊東忠太建築では京都に祇園閣があります。聴竹居にも伊藤忠太の怪獣の置物がありました)

ここは台風の被害で現在閉鎖中です。隙間からとった写真ですが、なかなか面白そうです。伊東忠太はどこまで関わったのでしょうか。

さいごに

ギリシャの影響があるかないかの証拠は両方ともありません。そこで、伊東忠太についてもう少し詳しく調べてみました。

下記記事は伊東忠太がエンタシスについて言及している部分を中心に書いています。

続・法隆寺の柱をエンタシスと呼ぶのはなぜか?伊東忠太を追いかけろ!