興福寺 中金堂再建

2018年に再建された興福寺中金堂に行ってきました。興福寺は何度も火災で焼けそのたびに再建されてきました。この中金堂は8回目の再建となります。この中金堂ができた当初は日本で最大の建築物だったそうです。東大寺の大仏殿ができるまでは日本一を誇っていました。では興福寺の中金堂をみていきましょう。


中金堂簡単な歴史

興福寺は藤原家の氏寺として創建され、南都六宗の一つです。お寺の大きさからもわかるように、強大な勢力をもっていました。

平重衡の南都焼き討ちの際、興福寺は最も早く再建されました。

元々の中金堂は平城京の遷都後に建設されました。中金堂は何度も焼けその都度再建されましたが、江戸時代(1717)に焼失した後は仮金堂(1819)が建っていました。

その仮金堂が取り壊されて、現在の中金堂が再建されました。今回は8代目の中金堂となります。

興福寺の中心的建物 中金堂

興福寺には中金堂のほかに東金堂(とうこんどう)があります。西金堂もありましたが、現在しません。東と西に挟まれて中金堂となったようです。

伽藍の配置から中金堂が一番重要な建築物であることがわかります。中金堂は高さ的にも興福寺の中で最も高い場所にあり、この建築物の重要さが強調されています。

中金堂から見た、五重塔と東金堂です。中金堂の高さが一段高くなっているため、五重塔、東金堂ともにいつもと違った印象になります。

中金堂の再建

中金堂は創建当初の姿を再現するために天平時代の建築物を参考にして再建されています。

規模としては長手約36.6m、短手約23m、高さ約19.6mと巨大な建築物です。創建当初のこの建物をみた当時の人たちは度肝を抜かれたのではないでしょうか。

藤原氏の威光をこの建築物で表現していたのだと思います。高層ビルの中で生きている私も大きさに圧倒されました。

妻側から見た中金堂(照明が残念)南大門跡からみた中金堂(正面)

中金堂は単層、寄棟造となっていて、下の屋根は裳階になります。建物全周に裳階が廻っています。裳階がなければ、唐招提寺の金堂とよく似た形になっています。屋根の勾配もゆるく雄大です。

中金堂は唐招提寺の金堂を参考にしているそうですが、唐招提寺は本体建物の一間の柱間が吹き抜きになっているので、その辺が大きな違いです。

上の写真は中金堂の裳階の中です。唐招提寺ではこの部分が本体の吹き抜きになっているのに対して、この中金堂では裳階となっています。

唐招提寺金堂 正面

 

唐招提寺金堂 妻側

中金堂の詳細

組物や細かい部分が唐招提寺金堂を参考にしているのがわかります。様式としては和様として再建されていてます。柱の柱頭も面取りがされていて天平時代の特徴が踏襲されていました。

地垂木は丸太でヒエン垂木は角の地円飛角になり、和様の三手先になっています。軒天井は格天井+軒支輪になっています。

上の写真は角の組物の納まりです。よくみると、三手先の一番上の三ッ斗が右側の肘木と繋がっていません。和様の最終形態は平等院鳳凰堂と言われています。鳳凰堂ではこの部分がつながっていますが、中金堂では、奈良時代の古式を踏襲するためにこのような納まりにしているのだと思います。

黄金に輝くシビです。何やら文字が書かれていました。金堂再建・・・平成30年10月と書かかれています。平成最後の記念すべき文化財の大工事です!

回廊 南大門 中門

現在は礎石だけになっている回廊、南大門、中門ですが、いつか再建されるのでしょうか。再建されると圧巻の伽藍になると思うので、再建されることを願っています。

上の写真は中金堂から南を見たところです。今は礎石が並んでいるだけです。

回廊は薬師寺と同じく複回廊であったことが礎石の配置からわかります。(複回廊は伽藍内部と外部を壁を隔てて、一つの屋根に覆われた形式です)

薬師寺の記事はこちら↓

白鳳伽藍の復興 薬師寺

中金堂の裏にひっそりと仮講堂があります。この仮講堂は元々薬師寺にあった金堂を移築してきて現在は興福寺の仮講堂となっています。

中金堂ができる前はこの仮講堂に仏像を安置していたそうです。

中金堂の木材

中金堂の再建は大量の木材が必要となります。薬師寺の再建では台湾ヒノキが使われましたが、現在台湾でヒノキの伐採は禁止されているので、どこから調達したのか不思議に思いました。

薬師寺の伽藍再建でさえ日本で木材を賄えなかったのに、どこから持ってきたのでしょうか。

産経新聞の記事では、柱がカメルーン産のケヤキで、柱以外はカナダのヒノキとありました。この規模の木造建築はもう外材に頼るしかないというのが、現状のようです。

まとめ

今回は再建された中金堂にスポットを当ててみました。

興福寺には他にも素晴らしい建築物があるので、また別の記事で書いてみたいと思います。